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卒業の頃にコレクトコール

 僕はその日札幌に行かなかった。その面接に僕は行かなかった。もうこれで本当に教師になることはない、教師への道は終わりだなと腹を決めた。

 採用試験にはB採用で合格し(その年は高校の国語の教諭に関してはそれなりの人数が採用になったようだった)、教育委員会からいついつ札幌に面接に来るように、という通知が届いた。当時の北海道の教員採用試験では、「合格(A)」「合格(B)」というふうに通知が来たと思う。(A)合格は来春からの採用が約束されるもので、(B)は一応合格ではあるけど都合によって採用したりしなかったり。
 面接にこいというのは、採用するということを意味していた。その面接に行けば、赴任校が言い渡されて、それで受験者が了解すれば、その高校に来春からめでたく新任教諭として配属という段取りになっていた。

 六畳一間のアパートで、面接の通知を何日も目の前にしていた。僕はまるで壊れたメトロノームだった。バランスを崩しながらああでもないこうでもないと揺れていた。踏ん切りをつけたはずなのに、割り切ったと思っていたのに、こうして実際合格通知が届き、面接の連絡が来て、ここまできても、このまま教師として働いてゆくことと、カメラマンになりたいという夢とに、迷っていた。
 「すっきりしない」そんな言い方がぴったりだったかもしれない。こんなすっきりしない気持ちのまま教壇に立っていいのかという、心の奥の片隅での誰かの小さなささやき。
 こんなすっきりしない気持ちで、どこかにカメラマンになりたい・・・、そんな気持ちで教壇に立ってはいけない。

 そして、壊れたメトロノームは、高校教諭という選択肢の上には止まらなかった。

 話はちょっとそれるが、カメラマンになってから知り合ったライターの女性の話しなのだが、20代の頃に航空会社のスチュワーデス(当時はそういっていた)の試験を受けて、ものすごい高倍率のなか最終面接までいったのだそうだ。ところがなんと、こともあろうにその最終の役員面接に遅刻してしまった。一応、面接室に通されて入ったら「飛行機はもう出たから」といわれて終わったのだそうだ。
 世の中はそういうものだろう。大学生で世の中を全く知らなかった当時の僕でさえも、もうこれで本当に終わりだという覚悟だった。

 それからしばらくたって、教育委員会から電話がきた。電話のない僕の所にではなく、山形の実家に電話がいった。それで、母から僕のいた由利アパートの大家さんに電話がきて、大家さんがそれを僕に伝言してくれて、それで、僕がコレクトコールで母に電話したというわけだった。携帯電話もメールもない昭和の時代の昔のことだ。

 城山十字路の電話ボックスの中で、母が教師になって欲しいと切々と語るのを、僕は受話器を握りしめて聞いていた。
 田舎で生まれ育ったお母さん、お金には苦労しっぱなしだったお母さん、息子に夢を託したお母さん、僕を愛してくれたお母さん。いずれ山形に帰ってきて教師を続けて欲しいと望んでいたお母さん。・・・
 そんな母の声を聞きながら、僕はいう言葉を探すことさえもできずにいた。
母は最後にこういった。
「車でも何でも買ってけっがら、頼むがらせんせえなってけろ・・・」
僕は胸に重くつかえるものを感じながら、いう言葉などもう何もなかった。

しばらく間があいて、僕は、
「んだが、わがった・・・」
といった。それ以上だと、何かがもたなかったからかもしれない。そして
「長ぐなっと電話代かがっから・・・」
といって電話を切った。受話器を戻しガチャンと受話器が下がると、10円玉が戻る軽い音が響いた。ガラス張りの小さなボックスの中が蛍光灯の緑色の光でにじんでしまった。
ボックスを出て、これもいいだろう、と思った。
 別に車が欲しかったわけではない。母の言葉が哀しかったのだ。母の心が哀しかったのだ。自分自身の覚悟などはいくらのものか。杜子春が、痩せ馬の姿になった母がむち打たれるのをみて、思わず「おっかさん」と叫んでしまう・・・、杜子春ほどの覚悟などは毛頭なかったとはいえ、それでも母の心に触れることにかわりはなかった。
 釧路の真冬の寒い夜だった。
 涙がそのまま凍りそうなほどに寒い夜だった。

 僕がクルーとして乗り込む予定の飛行機は、一度だけだが僕を待つことになった。そして、次の春にそれに乗り込んでネクタイ姿で乗務することになった。